(抜粋) 『分析哲学を問い直す Rethinking Analytic Philosophy』哲学会編, 136巻, 809号, 有斐閣, 2022.10.26. pp.133-53, 世界哲学における分析哲学 (納富信留) 論文スタイルの形式性は既成の土俵上で行われるパズル解きの様相も呈し、大学において「ノーマル科学」を遂行する論文を産出する pic.twitter.com/NG8a8YStoN
2023-02-03 14:21:11哲学産業を形成してきた。 近年の分析哲学を傍から眺めるに、仲間内での閉鎖的な知的ゲームの様相が濃く感じられ、哲学としての意義を見出せないばかりか、過度に限定された範囲での図式的な論争には誤謬の疑いすら抱く。 もはや問題提起という役割を果たしていないかのようでもあるが、
2023-02-03 14:24:31分析フェミニズム、分析形而上学、分析実存哲学、分析マルクス主義、分析美学、分析アジア哲学といった領域横断的な関心は、まだ分析哲学の強みを発揮させつつ具体的な知見をもたらす可能性を示唆している。
2023-02-03 14:24:49pp.163-5 現実性の問題をめぐって(乘立雄輝) ジェイムズ『哲学の諸問題』に基いて、「概念」(concept)と「パーセプト」(percept)の対比が提示される。パーセプトとは、物の個体化以前の直接的に感じられる生であり、〈今ここ〉において〈私〉が具体的に経験している実在のことである。
2023-02-04 01:46:27他方、概念は個体化のための「何」を提供し、〈今ここ〉を超える。パーセプトによる概念の充足はその都度限りであり、人間に依存しない。パーセプトとは「何」抜きの「ある」であって、それこそが〈今ここ〉における〈私〉と〈これ〉との出会いにおいて唯一回のものとして経験されている「現実性」
2023-02-04 01:46:28であると伊佐敷氏は主張した。wikidiff.com/concept/percept ↑〈今ここ〉において〈私〉が〈これ〉と「出会っている」という現実性から出て来る「反応」について、ぼくはR. D. Laing を参照してみたいと思う。
2023-02-04 01:46:28『引き裂かれた自己』第一部の実存的ー現象学的基盤の中で、レインは、人間は人としても物としても見られることができる、と述べている。 他者が人間と見られたり、有機体と見られたりするのは、異なった志向作用の対象となるからである。twitter.com/Umineko1848/st…
2023-02-04 01:46:29そういやきょう授業で、「いる」と「ある」の違いを「水族館に魚がいる」と「冷蔵庫に魚がある」の例を使って説明したら、何人かの学生がうっとりしたわね。たしかにね、魂の有無で異なる動詞を使うなんてなかなか洒落ているよね。
2023-02-02 06:10:23人間と有機体という二つの異なった経験的ゲシュタルトがある。人間はみな同時に同胞から分離されながら、かつ同胞に関係づけられている。人間的なかかわりが成立しうるのは、分離はしているものの孤立はしていない存在者のあいだにだけである。
2023-02-04 01:46:30他者へのかかわりは、他者との分離と同じように、われわれの存在の本質的な側面でありながら、しかもどのような特定の他者もわれわれの存在にとって不可欠な部分ではないという逆説である。 偽ー二元性が存在の中で体験されると、統合的自己をもって世界と出会うかわりに、世界内の事物や人々との pic.twitter.com/w2ydIE43ZE
2023-02-04 01:46:31直接的接触を否認すると同時に、自己存在の一部をも否認してしまう。この自己は、実在の事物や実在の人間との間に直接の関係を持つことをさまたげられる。図1で、世界並びに自己の実在性は自己と他者との間の直接的関係によって互いに強化される。図2では、悪循環となる。 pic.twitter.com/Un6X4vNMdO
2023-02-04 01:46:32そこにあるのは不毛の関係である。「われ・なんじ」の関係のかわりに、あるのは「準ーそれーそれ」の相互作用である。内的自己は、一定の代償的利益によって生きようとする。他者とのすべての応酬は、みせかけ・ごまかし・偽善に満ちているにもかかわらず、自分自身とはあくまで誠実・正直・率直な
2023-02-04 01:46:33関係を樹立しようとする。自己は現実の人間に直接かかわりをもつことを回避し、自己自身および自己自身の仮定する対象物にのみかかわりをもつ。この自己は、自己の想像や記憶の対象であるところの客体には直接的なかかわりをもつが、現実の人間にはかかわりをもたない。
2023-02-04 01:46:34ティーリッヒが書いているように、「神経症は、存在を回避することによって、非存在を回避する様態である」。自己を意識しないということは、非実在であるというに等しい。分裂病質者はいつも自己を意識することによって存在する自己を確かめる。だが彼は、自分自身が持つこの洞察力と明晰さによって
2023-02-04 01:46:35実はいつも迫害されているのである。 以上が、第二部、自意識についてであるが、ついでに『自己と他者』の属性付与と命令についても触れておこう。 彼女に合わないブラウスがある ブラウスに合わない彼女がいる (P.189) ジョーンの母親は、彼女の20歳の誕生日に一枚のブラウスを彼女に贈った。
2023-02-04 01:46:36ブラウスはジョーンには二回りも大きく、とても地味で高価だった。彼女は恥ずかしさと罪を感じて絶望し混乱して着るのをやめた。 ブラウスが彼女に合うのではなく、彼女がブラウスに合わなければならなかった。 彼女がどんな人間であるかについての母親の考えに彼女が合わなければならなかった。
2023-02-04 01:46:37このブラウスは、魅力的でないという点で、「おまえは魅力的でない娘だ」という属性付与を含んでいた。この属性付与は、「魅力的であるなかれ」という命令を含んでいた。
2023-02-04 01:46:37自分が自分にする属性付与が、自己について他者によってなされる属性付与と背離している場合、特に他者による属性付与が命令として受け取られる場合、罪や不安や怒りや疑惑を感じるという強い傾向が存在する。
2023-02-04 01:46:38人間は他人がこうであるとみなしているところのもので必ずしもないということを悟るのは、一大偉業というべきである。 話を戻そう。人間の身体は、個人的空間において三重の場を占めている、とレインはいう。 身体以外のすべての他の客体は、すべての人々にとって、外部にあるからである。
2023-02-04 01:46:39まず他者の身体はある点でわれわれがその人と共有するものであり、次に(他の人間みんなの外側にある一客体として)彼以外のすべてによって共有しうる公的出来事であり、そして第三に、彼にだけ属する私的なものである。
2023-02-04 01:46:40われわれの文化は、内ー外、現実ー非現実、我ー非我、私的ー公的といった線を引かない人々をきわめて明確に断罪し、そのような線を引くことこそ健康であり正気であり正常であると考える。 連鎖の空想の中では、立ち去ることは、忘恩的、凶悪的、自殺的、もしくは殺人的行為である。
2023-02-04 01:46:41ところで、三木は次のように述べている。 「会話の場面に参加するのは言葉や情報ではなくあくまで人間なのであり、人間にはそのひとが発言した言葉の内容だけには還元できないようないくつもの側面がある。会話というのは単なる情報の交換ではなく、人間の交流なのだ。」
2023-02-04 02:57:41語りえぬ現実性について考える時、アンダーソンの「言葉の強奪」に示唆されるような言語的ポリティクスに関して、従来の分析・言語哲学の言語観がいかに狭隘であったかは知悉されるようになった。 フリッカーの「解釈的不正義」「解釈的周縁化」が非当事者のコミュニティからtwitter.com/chokusenhikaem…
2023-02-04 02:57:42ちょっとした発言に、発言者がどのようなコミュニティに属し、どのようなコミュニティに属していないのか、あるいは発言者と同じコミュニティに属して、いまコミニュケーションが試みられている受け手とは具体的に何者であり、誰がそこから追い出されているのか、ということがときに透けて見える。
2022-10-21 17:06:15いかに滲み出してくるものなのか。マクゴーワンの差別的発話分析に加えてなお、三木が「それは私のこの痛みではない」と言う時、「何抜きのある」に対するサルトルの「何」を渇望する者の不条理による嘔吐を連想させる。「何と出会っているか」によらず現実性を肯定することは可能なのだろうか。
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