で、まあ、この西南戦争で「賊臣」となった西郷ですが、明治22年に大日本帝国憲法が公布されたのを機に恩赦され、追贈が行われます。それを記念して建設されたのが上野公園の銅像ですな。庄内藩の旧藩主である酒井忠篤も子の銅像建設の発起人の一人となってます。
2018-11-18 19:44:08で、まあ実際読んでみましょうという感じの講義だったわけですが、「實ニ文明ナラバ未開ノ國ニ對シナバ慈愛ヲ本トシ懇懇説諭シテ開明ニ導クベキ」というような西郷の文明論であったり、「敬天愛人」という言葉に代表される忠恕の精神だったりが述べられておりますので、
2018-11-18 19:44:09では、はりま歴史講座「明治維新の勝者と敗者:西郷隆盛と大鳥圭介の時代」の第9講「未完の明治維新ー象徴としての西郷隆盛」(講師:金子宗德/亜細亜大学講師、月刊「国体文化」編集長)に参りましょう。
2018-11-19 23:32:46明治維新に対する後々の評価としては肯定的なものと否定的なものがありまして、肯定的評価、否定的評価の中にもいろいろな意見が当然あるわけですよ。
2018-11-19 23:32:46その肯定的評価のひとつが、明治維新は対外的危機を背景に、封建的で遅れた江戸幕府を薩長が打倒した一大画期、近代市民革命であるという評価。大久保利通や福沢諭吉の面々に象徴される考え方で、司馬遼太郎の歴史観も大体においてここ。
2018-11-19 23:32:47それとは別の肯定的評価として、明治維新は神武天皇によって確立された「国体」の恢復としての王政復古はなしたけれども、それによる文明開化は単なる西洋化、猿真似に過ぎない(日本の伝統に立ち返って世の中を良くしていくのが本来の維新だ)という復古即革新の考え方があって、
2018-11-19 23:32:47逆に否定的評価のひとつが、マルクス主義の立場から、明治維新は不徹底なブルジョア革命であり、近代資本制国家を形成したに過ぎないという日本社会党左派につながる考え方と、同じマルクス主義の立場なんだけど、明治維新は絶対君主制を確立させたに過ぎないっていう共産党につながる考え方。
2018-11-19 23:32:48あと、最近多いのが、明治維新はテロリストである薩長閥による大義なき権力の簒奪であり、この薩長閥の強硬姿勢が後の敗戦をもたらしたんだ、という考え方。これは在野の歴史家、特に戊辰戦争で敗けた側の歴史家に多い。星亮一とか原田伊織の歴史観はここ。以上前置き。
2018-11-19 23:32:48で、まあ、西郷がどうして「復古即革新」を象徴すると目されるようになったのか。 西南戦争において西郷は天皇に弓引いた「賊臣」と見なされて、公然と支持、擁護が出来ない状態だったわけですよ。福沢諭吉が「丁丑公論」の中でちょこっと擁護してるけど、これ、発表されたのは明治34年ですから。
2018-11-20 00:11:11ところが日本人っていうのは判官贔屓なところがあってだな、西郷に肩入れする庶民感情が広がってるところに、明治政府に対する異議申し立てである自由民権運動の高まりが加わって、西郷を「圧政への抵抗者」として再評価する動きが出てくるようになる。
2018-11-20 00:11:12そこへきて、大日本帝国憲法の発布による特赦と追贈によって、賊臣の汚名を解かれたもんだから、公然と支持、擁護ができる体制が整うわけです。
2018-11-20 00:11:12更に、政府内外の薩摩藩関係者による顕彰の動きが活発化してきて、前回の講座の題材でもあった「南洲翁遺訓」や、勝海舟の「氷川清話」なんかで、江戸幕府に対する薩長の英雄的な戦いが明治国家を築いたんだという歴史観とともに、それを象徴する人物として西郷が神格化されていくのだな。
2018-11-20 19:46:40その一方で、明治政府による近代化政策が、労働問題やら公害やら貧困問題といった新たな社会問題を生み出していくことに対する批判が世の中に広がってくるといった状況が「維新のやり直し」という主張を生み出していく。
2018-11-20 19:46:40で、こういう西郷論を、葦津珍彦や影山正治、内村鑑三、山本七平、田中智學宗教家の言説から見ていくと、絶対的存在としての「天」とその意思にして絶対的規範である「道」、そしてそれを体現するものとして「天皇」があるはずなのに、その「天皇」と現実政治が一致しないというのは問題だ、と。
2018-11-20 20:11:28そして、それを正すためには「第二の維新」を為さにゃあならん、となるわけですよ。 そういう論点からすると、当時も今も「明治維新」というのは未完なのだなぁということになるのだけれども、まあ、その考え方の良し悪しは各自の判断ですわな。…という辺りでいいかな、うん。
2018-11-20 20:11:28では、平成30年度はりま歴史講座「明治維新の勝者と敗者~西郷隆盛と大鳥圭介の時代」の第10講「大鳥圭介と西郷隆盛」(講師:大塚健洋/姫路獨協大学教授)の出席レポートにまいります。
2018-12-14 11:04:49明治という時代は、それまでの常識が覆された時代であり、それでも生きていかねばならないという世界に人々が置かれていた、非常に重たい時代であったと言えるわけです。
2018-12-14 11:04:50国民総動員で、多大な犠牲を払いながら、非常に短期間で、近代国家の建設という事業を成したのが、明治維新であり、「明治の精神」と表現されるものなのではないかな、というところから始まりまして、では、明治維新における大鳥圭介と西郷隆盛とは一体何者だったのかというお話へ。
2018-12-14 11:04:50明治維新というのは、前述の通り、旧秩序を破壊して新体制を構築したという破壊的側面と新体制国家の発展を目的に殖産興業を推し進めたという建設的側面があって、前者を実務としたのが西郷隆盛であり、後者を実務としたのが大鳥圭介ではなかろうか、と。
2018-12-14 11:04:51幕府を解体し、独立国家である藩を廃止することで、天皇を中心とする中央集権国家を建設、そして課税基準を収穫高から地価に変更することで安定した税収を確保する。そういった政治的統一を断行した西郷隆盛の業績と
2018-12-14 11:04:51米英の産業を視察し、そこから日本の資源開発、産業育成、そしてお雇い外国人に代わる日本人技術者の育成を行い、殖産興業を推し進めた大鳥圭介の業績、これらが明治維新というものを象徴しているのではないかな、と。
2018-12-14 11:04:51そんな感じで明治維新の二側面を象徴する二人なんだけれども、その後のこの二人の人生、生き方というのも対照的で、旧体制の破壊者であった西郷は、廃藩置県において、これまで自分を支えてきた、あるいは支えとしてきた薩摩藩そのものを破壊しなければいけないという問題にぶち当たるんだな。
2018-12-14 20:05:09その中で島津久光と軋轢が生じたり、不平士族の対応をしなくちゃならなくなったりする。更に、討幕をなして中央集権国家を作り上げた結果、武士あるいは軍事指導者としての役目も失くしてしまう。
2018-12-14 20:05:09破壊から建設に転換していく時勢の中で、武士あるいは軍事指導者という位置から脱却できなかった西郷は、おそらくは自分の死に場所を求めるようにして、朝鮮使節に志願したり、西南戦争に流されたりして、最終的には自刃してしまう。
2018-12-14 20:05:09それに対して大鳥は、その、破壊から建設に転換していく時勢の中で、藩閥指導者の下で各々の得意分野のスペシャリストとして、政府の権力闘争には関与せずに生きていくという旧幕臣の生き方を貫いていく。これは大鳥が自由知識人であり、生来の武士ではないことも影響しているかもしれない。
2018-12-14 20:05:10結果的に、大鳥は、その洋学知識でもって工業技術者、技術官僚として大成して、明治33年には男爵に叙されるに至る。まさに明治維新の前後で「一身にて二生」を生きたわけですよ。
2018-12-14 20:05:10で、まあ、この対照的な二人ですけれども、西郷隆盛と大鳥圭介の違いは、生きた世界の違いであって、「南洲翁遺訓」というような形で庶民にまで親しまれた庶民性と最先端の専門的工学知識の習得と伝授によって技術者の育成をなした専門性という違いなんですな。
2018-12-14 20:05:10大鳥の築いた産業発展の結果である現代の生活と「南洲翁遺訓」を通して伝えられてきた西郷の思想、それらが明治維新の遺産であって、現代社会において我々は、技術者・大鳥の「百敗不屈」の精神と武士・西郷の「敬天愛人」の精神を改めて学ばねばなりませんな、ということで、これにて幕でございます。
2018-12-14 20:05:11以上、平成30年度はりま歴史講座「明治維新の勝者と敗者:西郷隆盛と大鳥圭介の時代」全10回でした。 …出席したのは9回だけどな。
2018-12-14 20:05:11