その日 一会桑は 思い出した。 ヤツが長州にいたことを。
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シービー @MrCB_Harukaze

ちょこちょこと、市ぃの鳥羽伏見までのことをツイートしましょうか。

2020-11-21 23:59:53
シービー @MrCB_Harukaze

討幕への挙兵が盛り上がったのは、慶応3年(1867)5月。四侯会議が頓挫、兵庫港開港の勅許騒ぎなどで薩摩藩が幕府に対して不信感を抱いた頃と思われる。(異論歓迎)6月16日、島津久光が狂介とやじを招き幕府打倒と王政復古の決意を語る。

2020-11-25 23:54:42
シービー @MrCB_Harukaze

薩摩藩・小松帯刀は、土佐の協力が得られなくても薩摩藩単独で討幕の兵を挙げることを御堀らに語った。御堀と柏村は8月24日に帰国し復命した。

2020-11-26 00:16:17
シービー @MrCB_Harukaze

長州藩では出兵に関する会議が9月6日に開かれている。桂さんは出兵派であったが、蔵六は慎重派であった。慎重派には八十朗、宍戸璣。出兵派には奇兵隊をはじめとした諸隊がおり、蔵六は俗論派と罵られたりしている。蔵六はこの時がもとで10月27日に軍政専任用所役から用所助役に降格されている。

2020-10-21 20:14:42
シービー @MrCB_Harukaze

9月16日。薩摩藩の大久保一蔵が長州藩に入る。大久保は長州藩と武力討幕の密命を結ぶために長州に来た。18日、大久保は長州藩主父子に拝謁し、武力討幕の意思を伝える。19日、大久保は木戸準一郎・広沢真臣と議論し、9月中に薩摩藩兵を三田尻に迎え長州藩兵と共に挙兵することを約束した。

2020-11-26 00:33:08
シービー @MrCB_Harukaze

長州藩は、9月下旬に薩摩兵が来るものとして出兵の準備を進めていたが、10月になっても到着しなかった。この頃野村望東尼が上京兵が出発する地の三田尻に歩いて向かうなど長州では期待が高まっていた。

2020-11-26 21:18:44
シービー @MrCB_Harukaze

10月6日、薩摩藩士・大山格之助が兵400を率いて三田尻に到着する。この頃、8日に京都で薩長芸三藩で合同での武力討伐が決議されている。そして13日、岩倉具視から大久保利通と広沢兵助に「討幕と会津・桑名・討伐の密勅」が秘密裏に下される。

2020-11-26 21:29:01
シービー @MrCB_Harukaze

慶応3年(1867)10月8日。薩・長・芸三国同盟が結ばれる。長州藩士広沢真臣、品川弥二郎、薩摩藩小松帯刀、西郷吉之介、大久保利通、芸州辻将曹らが三藩合同し倒幕のことを議決する。

2020-10-08 21:07:20
シービー @MrCB_Harukaze

慶応3年(1867)10月14日。長州藩主親子に「討幕の密勅」が下る。しかし、徳川慶喜が同日大政奉還を上奏する。

2020-10-13 19:01:55
シービー @MrCB_Harukaze

10月14日、徳川慶喜が大政奉還をを朝廷に上表した。朝廷は翌15日の朝議でこれを承認。薩長ら倒幕派の計画は挫折したかに見えた。しかし、薩摩の小松・西郷・大久保は広沢・やじと共に長州へ向かう。22日、小松・西郷は長州藩主父子に謁見。木戸と会談し、討幕挙兵を約束する。

2020-11-26 21:36:33
シービー @MrCB_Harukaze

慶応3年(1867)10月22日。薩摩藩士西郷吉之介、大久保利通、小松帯刀が山口に入り長州藩主父子に謁見、「討幕の密勅」を呈し上洛出兵を促す。また、長州藩士木戸準一郎と会談し、薩長出兵を協議し討幕挙兵を確認。

2020-10-21 20:01:41
シービー @MrCB_Harukaze

長州藩の編成は、奇兵隊:110、遊撃隊:97、膺懲隊:40、整武隊:97、鋭武隊:97、振武隊:98、第二奇兵隊:125、右田毛利家兵:93、岩国藩日進隊:100。そして、駈引役に山田市之丞である。

2020-11-26 21:48:13
シービー @MrCB_Harukaze

実績から言えば本来は駆引役は狂介の役割かも知れないが、藩は市ぃに任せている。なかなか出兵が決まら無かった頃、狂介が諸隊脱藩・出兵を計画したりするなど不穏な動きがあったことが原因かも知れない。個人的な憶測だが、桂さんと蔵六の意向だったのではと想像する。

2020-11-21 22:00:25
シービー @MrCB_Harukaze

慶応3年(1867)11月25日。長州藩兵1200名のうち先発500が上方に出兵。駆引役(軍指揮官)は、整武隊総督・山田市之丞(顕義)。総督は徳山藩世子・毛利元功、参謀に楫取素彦。 pic.twitter.com/m9Z4pFwTB5

2020-11-21 21:50:42
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シービー @MrCB_Harukaze

長州藩駆引役・山田市之丞はやはり若かったためか、周囲から嫉妬を買っている。特に、それまで内訌等で生死を共にした太田市之進から出発前に銃器・弾薬・小荷駄などの情報を教えてもらえず、太田は「大村に聞けば良かろう」と突き放した。

2020-11-24 18:53:57
シービー @MrCB_Harukaze

一方、白井小助は、兵が集結する三田尻にやってきて、「市ぃは身体は小さいが、あれは知恵の無垢だから馬鹿にしたらいけんぞ」と言い、出兵する諸隊隊長らに向かい市ぃ高く評価している。

2020-11-24 18:59:17
シービー @MrCB_Harukaze

慶応3年(1867)11月29日。25日に先発した長州藩の上京兵が摂津打出浜に上陸し、西宮に進出後そこに陣を張る。

2020-11-24 18:36:44
シービー @MrCB_Harukaze

長州藩兵が西宮に陣を敷いた頃、薩摩藩士・黒田了介と村田新八が訪ねてきて土佐藩前藩主・山内容堂公が12月初めに上京するので事を挙げる予定と伝える。市ぃは情報収集のため二人と一緒に入京し、王政復古と長州藩主・世子の官位復帰の情報を得て12月4日に本営に帰る。岩倉か中山に会ったと思われる

2020-11-25 19:00:47
シービー @MrCB_Harukaze

慶応3年(1867)12月8日。薩摩藩士・大山弥助(巌)と西郷信吾(従道)が長州藩が陣をしく西宮に来て、「王政復古の大号令が予定されているため至急進軍されたい」と伝える。長州藩駈引役・山田市之丞は奇兵・遊撃mの二隊を先陣とし、全軍出発。翌日入京した。

2020-11-27 21:06:57
シービー @MrCB_Harukaze

このときのことを大山巌は後に回想している。「山田顕義(このころはまだ市之充)といふ五尺に足らぬ二十四、五の男が出て挨拶した。此の小男がと思ふと彼はキビキビした声で応接し、堂々と全軍を指揮して繰り出したのには、自分もその意外に驚いた」素直に市ぃのことを誉めている。

2020-11-27 21:13:44
シービー @MrCB_Harukaze

慶応3年(1867)12月9日。入京した山田市之丞率いる長州藩兵は、とりあえず、薩摩の陣相国寺に入る。その後の後続部隊は一部東福寺に入る。

2020-11-28 17:05:25
シービー @MrCB_Harukaze

市ぃは、入京した瞬間に戦になると直感で感じ、すぐさま長州藩に、後続の兵と施錠砲4門、弾薬、雷管14万発を急送するように要求している。

2020-11-28 17:09:41
シービー @MrCB_Harukaze

この頃の戦略で幕府軍乱入のため京を放棄するシナリオも立てられる。山陰方面に逃れ再起を図るというもの。そして、それらは長州藩兵が受け持つというもの。市ぃはその戦略を立てる。西郷はそれを見て「長州の山田市之丞は。よか稚児どんのごたる」と漏らしたという。

2020-11-29 18:35:40
シービー @MrCB_Harukaze

長州藩駈引役・山田市之丞は、入京した長州藩兵をその後、二中隊を相国寺に残し、残りの兵は金戒光明寺に移し、そこを本営とする。

2020-11-29 18:22:37
シービー @MrCB_Harukaze

西郷は、小柄で童顔な男が長州軍の軍指揮官なのかと不安・不満を抱いていたらしいが、市ぃの戦略書の数々を見て「これなら大丈夫でごわすな」とうなずいたという。

2020-11-29 18:39:36
シービー @MrCB_Harukaze

慶応3年(1868)12月13日。長州藩は、新政府に備前岡山藩に代わって「蛤御門」の守衛を任ぜられる。

2020-11-30 20:43:51
シービー @MrCB_Harukaze

この頃本国から援兵が来て1500名になったため、後続部隊に光明寺を明け渡し、市ぃら司令部は京最前線の東福寺に移る。12月21日に長州藩は、薩摩・土佐・芸州の三藩と共に伏見の守衛を命じられる。市ぃは第二奇兵隊に鳥羽伏見の街道の見張りと調査を命じる。

2020-11-30 20:50:39
シービー @MrCB_Harukaze

「蛤御門」の守衛に復帰した同日、山口に長州藩士・志道貫一郎が至り、藩主・毛利敬親親子に官位に復する旨を報告。藩主親子は斎戒沐浴し、桂太郎から藩主復位復官の勅書を受け取っている。

2020-11-30 21:35:14
シービー @MrCB_Harukaze

慶応4年(1868)1月1日。長州軍は、本営を山田市之丞のいる東福寺に正式に移す。守備隊長・毛利内匠、指揮官兼参謀・山田顕孝(市之充)、奇兵隊隊長兼参謀・三浦梧楼以下諸隊兵約1000人。

2020-12-01 19:39:02
シービー @MrCB_Harukaze

訂正:三浦梧楼は参謀は兼任していません。また、同格として片野十郎の名があります。

2020-12-01 19:53:54
シービー @MrCB_Harukaze

このとき毛利内匠は相国寺に居た。そのため右田毛利家の兵は相国寺守備で使えず、実際には700名程度しか市ぃは使えなかった思われるが後「用兵の天才」の手腕が発揮される。このころから顕孝という最初の諱が頻出するが、長州軍司令かつ公家と対応する身として、通称は遠慮したのかも……

2020-12-01 19:50:41
シービー @MrCB_Harukaze

ふと思ったのですが。このころの市ぃの正式の名乗りは、 源 朝臣 山田 市之丞 顕孝 ですかね。 源 朝臣 高杉 晋作 春風 藤原 朝臣 大村 益次郎 永敏 かっこいい。 藤原 朝臣 ミスター ○○ シービー 、あまりかっこ良くない。というか、現代人に通称と諱は区別ないですからね。

2020-12-01 20:33:59
シービー @MrCB_Harukaze

慶応4年(1868)1月3日。鳥羽伏見の戦いが勃発する。長州藩・山田顕孝は、遊撃隊・後藤深造、第二奇兵隊・林半七に伏見への出撃を命じる。兵は200。奇兵隊と膺懲隊は竹田街道の巡邏とした。

2020-12-02 21:46:37
シービー @MrCB_Harukaze

この時点での市ぃの戦略は、敵を倒すことではなく、足踏みさせること、あわよくば退却させることであった。伏見北方の坂の上に陣を敷き、畳・雨戸などで壁を造り、向かってくる敵にだけ銃撃し、退去させるよう指示する。寡兵で対抗するための戦術である。

2020-12-02 21:58:06
シービー @MrCB_Harukaze

慶応4年(1868)1月4日。仁和寺宮嘉彰親王が宣下を受け徳川慶喜征討大将軍となる。この時点で幕府軍は朝敵となる。長州藩・山田顕孝(市之充)は、征討総督復参謀に就任する。ちなみに参謀は、薩摩藩・西郷吉之助である。

2020-12-05 20:24:52
シービー @MrCB_Harukaze

嘉彰親王が錦の御旗を掲げ、14時頃薩摩軍本営の東寺に入った。市ぃは続けて東福寺にて指揮を執る。遊撃隊、第二奇兵隊を伏見方向に、奇兵隊、振武隊を鳥羽方向に配置した。長州軍は、寡兵ながら幕府兵をを蹴散らしている。

2020-12-05 20:39:04
シービー @MrCB_Harukaze

4日昼過ぎになり、薩摩軍・伊地知正治から援軍要請があり、市ぃは整武隊を鳥羽街道に向かわせるが、奇兵隊と振武隊が状況を察知し、現場に先に到着する。現地薩摩軍を後退させ、長州軍が前線に出る。薩摩軍からも大山弥助(巌)が率いる砲隊が合流し、幕府兵を蹴散らした。

2020-12-05 20:46:35
シービー @MrCB_Harukaze

慶応3年(1868)1月5日。長州藩士・山田顕孝(市之充)、征討総督副参謀が前線指揮に立つ。

2020-12-06 16:55:55
シービー @MrCB_Harukaze

市ぃの前線指揮は、前日の戦果ゆえの安全性、また、長州軍司令官が前線に立つというところの、朝廷・薩摩・長州へのアピール行動であったと思えるがどうでしょうか。 ※個人的な観測です。

2020-12-06 16:59:41
シービー @MrCB_Harukaze

慶応4年(1868)1月5日。長州藩・山田顕孝征討総督副参謀が淀方面の前線指揮に立つ。この時期においては、ほぼ掃討戦であった。翌6日、徳川慶喜が松平容保、松平定敬らを連れて密かに大阪城を脱出する。

2020-12-07 17:04:22
シービー @MrCB_Harukaze

市ぃが大阪城に入ったのは、10日のことである。11日、遊撃隊を兵庫守備に命じる。その後は大阪城近辺を守備し、市ぃは、4月2日に三田尻に到着して長州に凱旋する。 だが、すぐに北越への援軍司令が下るが、それは後ほどのお話し。 (完)

2020-12-07 17:20:16
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.