竹本知行『大村益次郎』 木村紀八郞『大村益次郎伝』 山本栄一郎『大村益次郎』 より
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シービー @MrCB_Harukaze

上野寛永寺黒門 荒川区南千住円通寺所属 pic.twitter.com/wbHR99Qsen

2022-05-27 12:00:47
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シービー @MrCB_Harukaze

上野寛永寺は現在の上野公園敷地内にあり、標高20mという要害の地であった。彰義隊兵は約3000人(逃亡がにより実際は1000人程度とも言われる)。新政府軍彰義隊討伐責任者、防軍務官判事兼江戸府判事村田蔵六は、黒門口、本郷台、団子坂にそれぞれ兵を配置する。

2022-05-27 17:58:14
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村田蔵六は、黒門口、本郷台、団子坂以外にも兵を配置している。主として彰義隊兵が逃亡した場合の退路を断つためである。神田川方面:水道橋・和泉橋・昌平橋、神田橋、隅田川方面:両国橋橋・千住大橋、森川追分宿場、王子宿場、戸田宿場、川口宿場、川越藩監視、忍藩監視、古河藩監視である。

2022-05-30 19:37:40
シービー @MrCB_Harukaze

まさに、ありの這い出る隙間のなさであった。主戦場である上野方面は、黒門口:薩摩藩、鳥取藩、熊本藩他600名(後詰めとして佐賀藩兵数10名)、砲10数門、本郷台:佐賀藩アームストロング砲二門・尾張藩仏式砲二門・岡山藩米式二門・臼砲二門、津藩臼砲二門。

2022-05-30 19:38:21
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団子坂:長州藩、大村藩、佐土原藩、佐賀藩、岡山藩、尾張藩、後に援軍として津幡、福岡藩など5~600名、砲3門が配置された。なお、この配置計画は当初蔵六が西郷にのみ見せたと言われる。

2022-05-30 19:39:04
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この兵配備に関する有名な逸話で西郷が「薩兵を皆殺しにするのが朝意なるや」と問い、蔵六が「しかり」と答えたというのがあるが、後に東海道総督府参謀木梨精一郎が「黒門口は大抵望みました。(略)それは一時の雑談でしょう」と否定している。桐野利秋が言ったという説もあり、逸話と考えて良い。

2022-05-30 19:40:06
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村田蔵六にとってこの配置は苦肉の策でもあった。黒門口は寛永寺の大手門とも言える場所で、当然彰義隊の猛抵抗と激戦は予想された。ここに一番強い兵を置くのが常道である。それはこの時点では薩摩藩・熊本藩であった。

2022-05-30 19:40:46
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本当であれば四境戦争を戦った長州藩諸隊の精鋭を置きたかったであろうが、諸隊精鋭の奇兵隊・報国隊と狂介・時山らの幹部は北越に配置されており、上野にいた長州藩兵は鋭武隊二大隊、兵も幹部の質も見劣りがした。そのため薩摩に功を譲ったとも想像できる。

2022-05-30 19:41:32
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黒門口(現上野松坂屋のあたり)、団子坂(現根津神社、谷中墓地あたり)、本郷台(現東京大学病院あたり)、不忍池 pic.twitter.com/7kAyWCCkU7

2022-05-30 19:47:56
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上野戦争開戦直前、慶応4年(1868)5月13日。村田蔵六は、大総督府の命令で彰義隊討伐を諸藩に宣言した。諸藩に攻撃準備を命じると共に、江戸市民に外出を控えるよう布告。さらに3日間は河川往来禁止と宿場人夫使用を禁止。これは彰義隊兵士の逃走を困難にさせるためであろう。

2022-06-01 18:12:07
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翌14日、彰義隊が滞在する寛永寺の門主輪王寺宮高現法親王が上野を脱出し、榎本武揚の艦隊に身を寄せる。同日、大総督府により「彰義隊討伐令」が発せられる。

2022-06-01 18:12:51
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彰義隊討伐令が発せられたことを知った勝海舟は、衝突を回避すべく、彰義隊を支援していた寛永寺執当覚王院義観に書状を送り、寛永寺から彰義隊を去らせるように懇願する。徳川家を支援する彰義隊と新政府が激突したら徳川家がその責任を取らされる事態になると勝は恐れたのであろう。

2022-06-01 18:15:37
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しかし、義観は、会津藩の援軍が到着して彰義隊が勝利すると信じていたらしく、勝の要請を退け、徹底抗戦の姿勢を取った。

2022-06-01 18:16:11
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5月15日、攻撃は決行される。夜、雨が降る中、江戸城大下馬(二重橋)に攻撃部隊が集結。西郷隆盛によると、朝6時頃、湯島の賊兵を打ち払う命令が出たので湯島に滞陣したが、砲声が聞こえたため上野黒門口に兵を差し向けた、という。他の諸藩兵も5時から6時にかけて進軍を開始し、所定の配置についた。

2022-06-01 18:17:38
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二重橋。この手前に大下馬がある。 pic.twitter.com/dBOWwNr2hb

2022-06-01 18:20:02
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一方の旧幕府軍は、彰義隊本隊に応援部隊の、遊撃隊、幕府歩兵隊第八連隊、臥竜隊、菜葉隊、水心隊、神木隊、卍隊、松石隊、活気隊、高勝隊、純忠隊、他小隊が上野に陣取っていた。ただし、前日の彰義隊討伐令を聞き逃亡者が続出したため当初の3000名から1000名程度に兵は減少していた。

2022-07-05 18:27:33
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彰義隊本隊は多少の銃砲隊は保持していたが、大多数は刀鎗部隊であったと言われる。その他の応援部隊は鳥羽伏見方面での戦闘実績もある部隊もいたため、数は少ないが、ゲベール銃、ミニェー銃、エンフィールド銃等の前装銃を装備していたようである。また、少しの大砲も持っていた。

2022-07-05 18:28:24
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一方、新政府の銃装備は、新政府軍全兵士が前装施条銃のミニェー銃、エンフィールド銃を装備。長州藩兵はスナイドル銃、佐賀藩兵はスペンサー銃の後装銃を装備していたし、アームストロング砲をはじめとした新式砲も多数保持していて、火器にかけては新政府軍の方が有利な状況ではあった。

2022-07-05 18:29:32
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5月15日は、上野戦争の観戦のため仁和寺宮嘉彰親王、海軍先鋒大原俊美、北陸道先鋒総督兼鎮撫使副総督四条隆平、野州(栃木方面)鎮撫総督鍋島直大らが江戸城本丸跡堂垣の上に集まっていた。蔵六は、当初西の丸で指揮を取っていたが、その後富士見櫓に登って戦況を観ていたと言われる。

2022-07-05 18:30:07
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6時ごろから順次進軍を開始した新政府軍は、7時ぐらいには所定の部署に到着した。諸藩兵は7時半ごろ攻撃を開始する。主戦場の黒門口では湯島天神から向かった薩摩藩兵らが広小路に到着して攻撃を開始した。

2022-07-05 18:31:14
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当初彰義隊は黒門から出て三枚橋に陣を敷いていた。城から打って出た形である。この陣地に新政府軍は攻撃をしかけた。当該陣地は畳と藁の簡易的なものであり彰義隊はすぐに黒門内に逃げ込んだ。これを薩摩藩兵が急追したため、黒門口正面附近はほぼ薩摩藩兵でいっぱいになった。

2022-07-05 18:32:14
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そのため、熊本藩兵や鳥取藩兵はやむを得ず御徒町付近に移動して薩摩藩兵を援護する形で黒門口を側面から攻撃することになった。黒門内に逃げ込んだ彰義隊は、上野山内の山王台に砲台を築き、ここから黒門附近の新政府軍に砲撃を開始する。

2022-07-05 18:33:04
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前述したとおり新政府軍も黒門口には10数門砲は用意し、数では上回っていた。しかし、高地から低地を砲撃する彰義隊に比べ、低地から高地を砲撃しなくてはならずその威力を十分に発揮出来なかった。さらに、幕府歩兵隊や遊撃隊など新式銃装備の隊が銃撃も加え、黒門に近づくことさえ難しい状況であった

2022-07-05 18:36:29
シービー @MrCB_Harukaze

搦手といえる根津・団子坂方面は、東征大総督下参謀寺島秋介(長州藩)が総指揮を執り、根津権現に陣取る彰義隊の物見部隊を撃破した後、長州・佐賀・大村・佐土原・岡山・尾張の各藩兵を谷中門と団子坂の二手に分けて進軍を開始した。

2022-07-06 20:39:09
シービー @MrCB_Harukaze

だが、先日からの大雨のせいで小川が増水し氾濫していて進軍は難儀した。増水した小川を渡ろうと苦労している無防備なときに敵から銃撃を受け、元の岸に戻るなど遅々として進まなかった。

2022-07-06 20:40:07
シービー @MrCB_Harukaze

根津・団子坂方面は上野山や黒門程の強固な防御施設はなかったが、この辺りには数多くの寺社が存在していて砦の役割を果たしていた。彰義隊は、それらの寺社に分散してゲリラ戦のように影から銃撃を行って新政府軍は大いに苦戦する。

2022-07-06 20:40:30
シービー @MrCB_Harukaze

一つの寺社を占拠しても他の寺社に移動して攻撃してくるため、砦のような寺社を一つ一つ潰していかなければならないという市街戦の様相になっていった。このような大苦戦の中、長州藩は大失態を演じる。

2022-07-06 20:41:03
シービー @MrCB_Harukaze

長州藩兵はこの戦いのために新鋭の後装式元込銃スナイドル銃が配布されていた。彰義隊や長州藩と佐賀藩以外の新政府軍諸藩の主装備である前装式のゲベール銃、ミニェー銃、エンフィールド銃に比べて装填時間が短く連続発射能力に秀れた銃であった。

2022-07-06 20:41:30
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、長州藩兵はこの銃に関する十分な訓練を受けていなかったため扱いに慣れておらず、この戦闘中に一旦戦線を離脱・後退してスナイドル銃の訓練を行うという大失態を演じる。根津・団子坂方面の主力軍である長州藩が一時的に離脱したため、一時退却・敗走の危機も生じた。

2022-07-06 20:41:59
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、新政府軍は長州藩兵が復帰するまで持ちこたえている。もちろん諸藩兵の士気が高かったのが一番の要因であったろうが、佐賀藩兵のスペンサー銃が威力を発揮したことも大きな要因であったと思われる。

2022-07-06 20:42:32
シービー @MrCB_Harukaze

スペンサー銃は後装銃でボルトアクションにより最大7発連続発射が可能(小型ガトリング砲のようなもの)であり、世界的に見ても最新鋭といえる。この7連発連続発射により佐賀藩兵は弾幕を張る事が可能で、猛射撃により長州藩兵復帰まで持ちこたえて、新政府軍は進軍を再開した。

2022-07-06 20:43:55
シービー @MrCB_Harukaze

本郷台の砲撃部隊も午前6時ごろに砲撃を開始する。このとき、通説では佐賀藩のアームストロング砲は村田蔵六の意向(爆裂弾の威力は甚大で、同胞にはなるべく向けたくない)で砲撃を控えていたといわれるが、僕はそうではなく、戦闘当初からから砲撃を行ったと考えている。理由は後述する。

2022-07-23 19:18:10
シービー @MrCB_Harukaze

前述のとおり黒門口で新政府軍は大苦戦する。加賀藩邸の佐賀藩以外の岡山藩、津藩などの砲兵武隊が”午後から”黒門口などの前線に移動させた。(武雄淳『佐賀藩アームストロング砲』)一部は、やはり苦戦していた団子坂方面にも移動している。

2022-07-23 19:18:42
シービー @MrCB_Harukaze

つまり、佐賀藩も他の砲撃部隊同様午前中から援護の砲撃をしていた。午後から、他藩砲撃隊が前線に援護に出て佐賀藩一藩が本来の砲撃隊配置に残った。午後からは本郷台方面の砲撃は佐賀藩だけになったため、「午後からのアームストロング砲」伝説が生まれたのではないか。

2022-07-23 19:19:04
シービー @MrCB_Harukaze

通説では、午後にアームストロング砲発射の新政府軍命令を受けて、砲撃を加えた結果、黒門口が破れて薩摩藩兵が突入し、一気に形勢有利となったとなっている。実際には、それほど単純ではない。

2022-07-23 19:19:34
シービー @MrCB_Harukaze

まず、高低差の不利を埋めるため、黒門口方面の砲兵武隊を上野周辺の料亭「雁鍋」「松源」の2階に狙撃兵と砲を設置して上野山内の攻撃を行う。元々銃砲の性能差に勝るため、これで山内の砲兵や射撃兵に多くの被害を与えた。

2022-07-23 19:20:08
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それに加えて。攻撃開始当初はなかなか上野山内に命中しなかったアームストロング砲であったが、砲撃を繰り返す都度斜角等の修正を加え、午後ぐらいから徐々に山内まで届くようになる。この二つの作戦の効果で黒門口が突破される。

2022-07-23 19:20:31
シービー @MrCB_Harukaze

当時の不忍池は、黒門口付近には木々がうっそうと生え茂っており、加賀藩邸からも山内はよく捉えられず苦労したようである。

2022-07-23 19:20:54
シービー @MrCB_Harukaze

余談だが(司馬先生っぽい)佐賀藩は最新武器を持っていたことが凄いのではなく、最新技術を本番での短時間で修正する技術力をもっていたことが凄いのである。スナイドル銃を持たされたぐらいで一旦退却したどこぞの藩は(以下、自粛)。黒門口の突破は”午後2時ごろ”と言われる。

2022-07-23 19:23:28
シービー @MrCB_Harukaze

僕は以下の点でアームストロング砲は上野戦争の当初から使われたと考える。

2022-07-23 19:24:18
シービー @MrCB_Harukaze

・過度な威力のアームストロング砲は同胞への使用を限定すべきという直正公の意向があったが、直大公はこのときの想いをこう詠んでいる ―「大君のみたてとなりて尽くすこそ 弓矢の家のならひなりけれ」(復暦本書)。

2022-07-23 19:26:52
シービー @MrCB_Harukaze

・江戸城で観戦していた直大公に正午頃、黒門口が堅固であるとの報告が届いたので後続の兵を考えていたころに、鍋島藩のアームストロング砲二門で数百発打ち込んだ威力で黒門口が破れたというものである。夕方四時頃、彰義隊は寛永寺に火をかけて逃走をはじめた。(西村明喬『御出勢御供日誌』)。

2022-07-23 19:28:41
シービー @MrCB_Harukaze

前述の文書では、午後から砲撃を開始したとは書かれていない。仮に正午過ぎに命令があったとして、届くのは1時近い。黒門突破は午後2時頃なので、1時間強で1門につき100発撃った計算になる。約30秒に1回であり、これが当時の銃砲の性能で可能であろうか。普通に考えれば午前から撃った合計数であろう。

2022-07-23 19:29:43
シービー @MrCB_Harukaze

・アームストロング砲を午後から発射して勝利に導いた、というのは、佐賀藩士から家老?への書簡にしかない。他の文書には一切記録がない。戦況を誤解したか、佐賀藩の功績を盛ったのか?

2022-07-23 19:30:53
シービー @MrCB_Harukaze

しかし、いつ砲撃が開始されたのかはあまり関係なく、アームストロング砲が上野戦争だけでなく上越戦争等の戊辰戦争に多大な貢献をしたことは事実である。

2022-07-23 19:31:21
シービー @MrCB_Harukaze

山内に砲弾が着弾するようになると彰義隊兵士は動揺し脱走する者が相次いだ。また、応援部隊も同様であった。あれだけ抵抗していた義観も自分が居る近くの吉祥閣や中堂が炎上し始めると輪王寺宮を伴って逃走する。

2022-07-24 14:01:11
シービー @MrCB_Harukaze

山内の混乱を見た黒門口の新政府軍は、御徒町附近に居た薩摩藩遊撃隊一番隊(隊長小倉壮九郎)、熊本藩和田権五朗隊、堀十左衛門隊、鳥取藩山国隊が彰義隊砲台山王台脇の崖をよじ登り山内への突入を行った。激しい戦闘の末、山国隊が一番乗りで山王台に乗り込み、占拠した。

2022-07-24 14:01:28
シービー @MrCB_Harukaze

苦戦の最大の要因である山王台を占拠したことで、新政府軍は勢い付きいた。広小路に居た薩摩藩城下士三番隊隊長篠原国幹は、西郷隆盛に突撃許可を得た。城下士小銃隊一番隊(隊長鈴木武五郎)と同三番隊は黒門に突撃する。彰義隊の猛反撃に遭うが遂に黒門を突破した。

2022-07-24 14:01:46
シービー @MrCB_Harukaze

これに続いて薩摩藩兵具隊一番隊(隊長川路利良)、熊本藩兵も黒門から山内に突入を開始した。鳥取藩兵は不忍池の方に回り、穴稲荷門を攻め、これを破り突破した。

2022-07-24 14:01:59
シービー @MrCB_Harukaze

一方、団子坂方面軍は、弾薬補給の為一旦長州藩兵と佐土原藩兵が退いていたが戦線に復帰、更に王子宿場から津藩兵の援軍もあり、佐賀藩、長州藩、大村藩、佐土原藩、岡山藩、尾張藩、福岡藩、津藩、全軍で寺院を一つづつ攻め落としつつ進軍していた。

2022-07-24 14:02:10
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まとめたひと
シービー @MrCB_Harukaze

大河ドラマ『花神』をリアルで観て歴史が好きになりました。素人歴史ファンです。 斗南藩領出身。 幕末維新[長州/晋作坊ちゃんと仲間たち/蔵六/市ぃ] /大河ドラマ/動物/ 座右の銘は、”諸君、狂いたまえ” 自由に楽しく呟きましょう。 Tweets are my own.